霞町やまがみの店内は他の店より暗く、陰翳を大事に扱う。 出汁が淡泊ながら奥深い。 さり気なく、淡々と、料理にニュアンスをつけるのみ。 松葉蟹のお椀、ふぐの薄造り、たけのこ、のどぐろの炭火焼き、穴子寿司。 季節は勿論、料理にある精神が刻み込んでいた。 どこか物寂しく、贅沢の抑制によって生まれる繊細さを感じる。 私はそれを勝手に東京の味と名付けるが、正確に言うと、昔、東京に住んでいた頃に一度惚れた味だった。
今日の多くの料理は盛大な饗宴に膨張して、虚しくて、寂びない。 食べて疲れてしまう。 ひたすらに本物不在という真空を埋める、世間の歪んだ虚像に沿って作り上げた非現実のsimulacraに過ぎない。
そんな東京に厭きたら越中へ逃げる。 そこの水が綺麗で、空気も澄んでいる。 人込みが少ない分、蝶、蜻蛉、蜘蛛がそこら中に彷徨う。 日本のヴァンクーヴァーである。
ホテルの玄関で人々が粗大荷物をバスに詰める光景をよく見かける。 ピンポイント的に山奥の一箇所に移送され、決まった山道を赤の他人に挟まれながら歩くなんて、どこまでも不自由で不自然すぎる。
都会が無限に続かない限り、とにかく一方向に進めばいずれ自然だろうと考える単純な私はある朝の出来心で古めかしい電車に乗り込んだ。 田舎を走り抜けて、途中で乗客がどんどん降りて、私だけが残った。
トンネルを潜る。 後方を振り向くと車両の外に日光を蝕むように影が荒々しく飛び回っている。 その光芒が段々と縮んで、そして点になった。 耳が詰まるほど奥行きが長く、山が重かった。
やがて天涯に到達した。 駅の向こうにサーロイン形の低い山が寝そべって、斜面に二種類の木が生い茂っていた。 微妙に異なる緑の列が挟み合うそのグラデーションが霜降りの緻密な断面みたい。 一本一本の筋を目で追う。 巨人なら丸呑みしたいぐらい食欲をそそる風景だった。
急に鷹の吶喊が空に響いて、その瞬間、自分が獲物になる可能性に怯えながら初めて社会のあらゆる危機感から解放された。 すぐそこら辺に殺人鬼が潜んでいるかも知れないというのに。
錆びた鳥居の先に苔むした石階段が伸びて、果実とイチョウ満遍の神社へ繋がる。 荒廃されたかどうか絶妙に判別できない本当の人造自然だ。 登ってみるか迷ったが、正しい参り方が分からない以上、無闇に神々の神経を触るなら初めからしない方がマシ。 Let sleeping gods lieということだ。
町の美術館にて、様々な硝子器が箱の中に囚われていた。 中身のない空っぽのままでは永遠に未完成である。 金箔で花草の図案が焼き付いたぐい吞みに酒を注いでやれ。 目眩になるほど七彩の線を織り込んだ蓋物に珍味を入れてその切り刻んだイメージを面白がれ。
Buninが演奏したArabesque 1を聴く度に日比谷公園の景色が目に浮かぶ。
長年日本に住んでいるうち、彼は音色まで馴染んだかも知れない。
軟水のように柔らかい夢心地である。
都心を潜るとそこはうなぎ屋だった。 外は土以外何もないのに壁に偽物の窓が飾ってあって、ラブホテルらしい佇まいだとふと思った。 大正浪漫と閉塞感を同時に抱かせる不思議な空間である。 静寂の中、空想のフォックストロットが続く。
そんなカヴァの白焼きは湯煎重で運ばれてくる。 その容貌は脆弱そうで可憐で、正真正銘の箱入り静岡娘である。 重箱の一角に塩を添えて、塩と山葵で食べるがいい。
偶に悪質なうなぎに出遭うと無数の骨と闘わなければならない。 関東風なら蒸し足らず、関西風なら焼きが生半可。 その結果、骨が歯茎や口蓋に刺さったり歯と歯の隙間に挟んだりして、まるで百本の矢を自分の口に向けて乱射する連弩である。 もしそこでご飯を加えたら、転がる飯粒が刺さった骨を引きずって口が七八分に裂けてしまう。
でもこの白焼きは決して乱暴な真似をしない。 小ぶりだからか、それとも深蒸しのおかげか、骨が殆ど感じられなく、礼儀正しくあっさりした味だった。 焼き目がどこにも付いていないのに、幽かな焼き香りとカリッとした身の締まり方から間違いなく焼き物だと分かる。
因みにうなぎを食べるには小雨の日が最適ではないかと思う。 食後に涼しく濡れた空気がうなぎの脂や炭の臭いを灰空へ連れ去ってくれるからだ。
ヴィーナスの夢を観に縮景園まで足を運んだものの、そこでは好戦的な蚊が湧き溢れて、亀さえ落ち着かない模様だったので、慌ただしく庭園を後にした。 それから散歩の途中、湖畔に聳える柳の老樹を発見した。 葉の先が火傷じみた風に枯れて、枝が骨のように細く白い。 私を真上から見下す姿形は相馬の古内裏の骸骨に似ている。 これは全部あの地獄の晩餐の凶兆だと後でつくづく思う。
冒頭から醤油一杯と茹で卵で馬鹿舌にさせられる。 アガスブッシュで先手必勝。 山盛りの薬味に溺れる刺身の鮮味が分かるはずがない。 純白の有田焼にどす黒いポン酢を注げば、どんだけ立派なものであっても汚い水溜りにしか見えなくなる。 一刻も早く瀬野の煌らかな川水でこの穢れを洗い流したい。
人間国宝だの、稀少品種だの、皿ごとに必ず大層な詳述が付く。 ただしその内容が浅ましくて、まるで和食、いや、地球においての初心者として扱われている気分だった。 周りを窺うと、御もてなしの仮面の裏側から漏れているこの悪意に対してよくも皆が平然とにこにこ頷いたりシナリオ通りに感慨めいたりしていて、彼らの笑い声すら不愉快に感じた。
テーブル席に一枚の小さな紙を手に握って読んでいる西洋の大漢がいる。 英語に訳した品書きのようだったが、体格と紙のサイズがあまりにも合わないため、貧相に映ってしまい、滑稽でさえあった。 この品書きと言い、器を紹介するパンフレットと言い、おしぼりとナプキンを両方出すことと言い、そもそも蛇足だ。
感覚の痺れが順調に進む修羅の中、私の唯一の救いは今までにないぐらいにグロテスクな山葵であって、その山葵は無名ながら風味こそ天下無双。