大班樓の旧地では階段の下をくぐらないとダイニング室に入れない。 狭い香港地だから仕方がなかっただろう。 通る時の怪我を防ぐために全面の壁に象牙色の革が貼ってあった。 奇抜は奇抜でも、何故か高級中華館の気品が滲み出て、私は逆に好印象を抱いた。 移転後の店内は温かい白革から一転暗黒マットに変貌したけれど、老練なギャルソンは相変わらず気さくで安心感を与えてくれた。

晩餐の始まりはRachmaninoffのピアノ協奏曲第二番と同じく、静まりから一歩一歩近づく。 幾つかの前菜で味蕾をくすぐったところ、いきなり美食の怒涛が襲いかかる。 その勢いが凄まじくて、〆の煲仔飯まで一気に受け止めなければならない。 ペダルを踏みっぱなしのように味の余韻が混ざり合う。

鯛の鯛あれば班の斑あり。 胡椒炒斑球こそ料理長の腕の見せ所である。 炒め物の真髄とは、如何に最小限に油を引きながらも最大限の火力で食材に焦香を刻み込むこと。

鮮明な莢エンドウと黒皮白身の切り身の対照で、皿の上に賑やかなムラが描かれた。 先日山頂小径で見た一面の荒い山壁を彷彿とさせる。 ただし、長年の腐蝕によって出来た自然美と違って、技術が芸術に成り上がった瞬間は厨房の中の人間のみ知る。

どれどれ、と箸を付けると、隙間から香気が漏れる。 有り得ないぐらい油分が少ないし、それにあの鮮味と歯応えは天然海斑特有のもの。

従来鮑參翅肚を抗拒する大班樓でも、段々派手な料理を造る傾向になりつつある。 そんな中、この一見凡俗な、過小評価されがちな一品こそ私の目に留まるという感想が支配人の耳に入った時、彼は驚きを隠せなかった。 皮肉なことに、ずっと年下の私を老派と呼ばざるを得なかった。

そんな私に西洋の先生がいた。 彼は同時に私の上司でありソムリエでもある。 「君は一度長期休暇を取ってフランスに行って来い」、「粗末なワインを飲むな」、「物事を徹底的に分析すること」などと日々私にヨーロッパ的思想を叩き込んでいた。

暖かい季節が訪れると、なかなか偉大なグランヴァンに向き合う気になれない一方、それでも赤ワインの濃度が恋しくなる時がある。 そこで、ロワールの赤ワインを一寸冷やして細いグラスで飲むのを勧められた。 なるほど、この手があるか。 西洋の粋である。

それを知ってから、Marc BrédifのChinonとLaura Chenelの山羊チーズが毎年の夏の恒例となった。 深遠なペアリングとは言えないが、くせ者同士が仲良く青さを重ねた結果、何だか涼しい山奥の王様の気分である。

また、viognierを飲んだことがあるかを突然に聞かれて、ないと答えた翌朝、オフィスに着いたら自分のデスクの上に一本の南西地方のものが置いてあった。 言うまでもなく彼の仕業だ。

その日の晩ご飯は豆腐蒸肉餅という申し訳ないほど典型的な広東家庭料理であるにもかかわらず、偶然にも、意外にも、相性が良かった。 抑えた酸味はご飯の邪魔をしない。 仄かな花香が国境を越えて獣臭を解く。 誠に礼譲親和のワインである。

数年後、リヨンでCondrieuを飲んだが、きついパフュームみたいに強烈で全く好きになれなかった。 やはり一歩引くことが大事。 「僕は純米大吟醸が嫌いだ、純米吟醸をくれ。」 かつて酒で知り合ったフランス人のこのマリー・アントワネットっぽい発言を思い出す。


サイバーポートは開発から二十年経っても何も変わらない。 時に放置された不生不滅の街である。 人がいないわけではないのに不思議にひと気がない。 通学する学生達は立ち寄らず、映画館は常に空いている。 偶に麓に猪を見かけることもある。

ホテルではデキャンタを手の届かない高い壁棚に飾って、明らかに使用を諦めた。 バーでの一列の精密な音響機器が永遠につまらないジャズを繰り返していた。 こういった偽りの優先が痰のようにこの都市を腐れへ導く。

かつて裕福族たちの海辺は異地の砂の下に埋められ、今は中国大陸の老人団体が出沒する場となっている。 しかし面白い事に、連中は海に一切向かわず、終始駐車場をうろついて煙草を吸い続け、車の排気ガスとまるで悪友の関係である。

熱帯水泥を出て、文明に触れる。 燦爛たる信号灯の下に動めく人々は昆虫に過ぎない。 營致會館の大理石円卓で議論を交わしながらゆったりと点心を取ることが中環ならではの楽しみ方の一つ。

叉焼腸粉は普段芫茜などを入れるが、ここでは敢えてストレートで食べさせる。 何故なら、せっかくの上等な叉焼が勿体ないからだ。 鈍い宝石みたいな手切り叉焼がはみ出るまで気前よく腸粉に詰められて、主張が強い。

トイレに綺麗に照らされた水槽が並べてあって、中に檸檬の種よりも一回り小さい海老が藻の隙に生息している。 外で先程食べた黒キャビア冠被りの揚げ雲呑の具になってしまった普通の海老と運命の差が一体どこだろうか。

彼らが羨ましい。 煩悩に縛られず、一日中人間様の無垢の姿を眺め続ける世界はまるでパラダイス。 そして時折XO醬になる夢を見る。

寒舍食譜の鎮江排骨は排骨と言っても骨がない。 が、決してポークチョップみたいにフォークとナイフを使ってはいけない。 その場合、箸で挟んで縦に噛みちぎるのが正解だ。 外はカリッとしている。 中に肉の繊維と脂身の一体化によって、弾力とはまた違う「爽」という食感が生まれる。

本物の鎮江排骨は、酸っぱいながら酸っぱく感ぜず、甘いながら甘く感じない。 核心には漬け込んだ豚肉の深いコクである。

ふんわりと炊き上がった白ごはんは粒がはっきりしてくっつかない。 尋ねたところ、それは石虎米という。 テロワールというべきか土の風味が濃厚に感じられて、水のような日本米と真逆で常に配偶者を探し求める寂しがり屋である。 従って、漬物と味噌汁よりも排骨や牛肉などソースに絡まったおかずと食べるのが最適だ。 その為の存在と言ってもいい。

和昌茶莊にて三言語で烏龍茶を教わったことがある。 張氏の動作は実用的で効率的で、無駄な飾りがない故に美しい。 たとえ結果としてカッコよく見えても、一つ一つの動きに必ず意味があって、見栄を張るためではない。

銀色の大きいやかんから茶葉の入った急須に一度熱湯を注ぎ、蓋をしてから更に追い湯で急須全体を温める。 口を覗くと、茶水がまるで呼吸のように膨らんだり戻ったりする。 それを面白がっている人もいれば、黙々と息が絶えるまで待つ人もいた。

淹れたての高山烏龍茶は複雑性があって、落花生の香りが立つ。 思えば、確か張氏は年越しに落花生を煎って常連さんに分けていたらしい。 ならば、私は代わりにヘーゼルナッツ入りのゴーダチーズをつまむ。 互いを高め合うような茶菓子とは程遠く、ただ平凡に、純粋に愛し合うだけ。