豪龍久保では無口の主人を中心に一種のエルミタージュ感が走り、私は何回目でも緊張で仕方がない。 向こうが料理に夢中ならば此方も料理に向くがいい。 五月末の山形牛と山菜のしゃぶしゃぶはたまらなく美味しい。 とは言え、何かが特別なわけではなく、ただの当たり前の味と当たり前の美味しさである。 しかし恐ろしいことに、当たり前だからこそ、今まで味わった全ての肉を否定されてしまう。
もしそれが究極の引き算だとすれば、うすだの夏しゃぶしゃぶは足し算である。 ズッキーニと胡瓜を薄い仙台牛で巻いて、肉の甘い脂に野菜の甘味を加えた上に、擂り胡麻を大量に入れたタレに浸けて香りを移す。 食材を並ぶだけの手抜きデザートと一線を画す、ブレンド紅茶のように素材其々の美質を抜粋して構築された一品だった。
さっと茹でる八戸の毬姫牛のすき焼きを口に含むと、ジュワッとし、咀嚼している内に空気と混ざってeffervescenceの感覚が生まれた。 それでも畢竟赤身なので、やはり日本酒よりも赤の発泡酒、例えばlambrusco等が一番合うのではないかと食べながら想像していた。 後で改めて考えてみれば、どちらも国の東北地方の産物だという第三の共通点を発覚し、無根拠にも納得がいった。
元々欧米の影響で食べ始めた和牛は今は膾炙人口する存在であり、一つの世界標準に昇華した。 令和に至って、和牛を食はねば開化不進奴。 しかし、まるでお約束のように、扱い方が判らないせいか、本場外の和牛は反吐が出るほど不味い。 もしこれは世間への意図的な逆襲であれば、私はこの巧妙で狡猾で皮肉な謀略に脱帽するほかない。
近代文明の矛盾、国家主義の荒唐無稽さ、論理的思考の野暮さを嘲る「特性のない男」の舞台であるウィーンにConcertgebouworkestがツアーでやってきたということで、私も彼らを追って初めて訪ねた。
その理由については、この音楽帝都に居る間、誇り高き地元民に多少誤魔化さなければならなかった。
Großer Saalは鬱陶しいほど眩しく、寺の中で音楽を聴いている感覚だった。 光輝の中、弦楽器群の音色は西欧の野花を連想させる。 観客たちはオーケストラが観れるように前の列の人の後頭部の隙間を狙って頭をズレることによって、後ろの人もまたズレて調整しなければならないので、一連のrecursive蠕動が発生して止まなかった。
春公園で皆が満開の花の木々を囲んで花びらを浴びている中、私はそれが全くつまらなくて、逆に咲きかける実ものが好きだった。 満開の花は脅迫的なほど鮮やかで見て息苦しい。 一方、実ものの隠れながらぎりぎり見えそうなところが生々しく、神秘的というか禁断的というか、眺めているうちに猥りがわしい気持ちさえ湧きそうだ。
二百年弱の歴史を持つZum weißen RauchfangkehrerではボイルしたMostviertler牛の肩肉に揚げ衣を付けてブイヨンに浸す看板料理がある。 その丈夫で穏やかな味は、出汁に使った無形の香味野菜と肉の下に添えてある人参やインゲン豆の支えがなければきっと成り立たないだろう。 音のピラミッドと同様に、安定な基盤を失うと頭が重すぎて逆さになって崩れてしまうから。 内陸に限って、野菜こそ贅沢だ。
毎晩恒例かどうかは分からないが、店内でピアノの生演奏が行われた。 演奏という構造的なものより、空間に音を湛えるという方が的確かも知れない。 ピアニストはヌードリング、遊ぶように弾いていて、しかも右手で弾きながら左手で水を飲んだりしていた。 なるほど、速いとか遅いとかとは別に、この国において、余裕が至上だ。
早い者勝ちの中環にある8 1/2 Otto e Mezzo Bombanaはモダンで都会的で、その一等地を表現している。
今時の火入れの潮流に逆らう不易流行のBombana氏はFassone仔牛のヒレを敢えて均一な薔薇色にせず、外側が完熟で中心がほぼ生というグラデーションに仕上げた。
それを深い錆色の皿に乗せると一段と鮮明に見えた。
鋸歯付きナイフで切って、ジュを絡めて食べる。 この柔らかい肉質を抽象的に表すと、イタリアンジャケットにありそうな十字柄の縦と横の重なる細い直線だ。 率直で、洗練されて、無駄がない。 舌の上では大地に根ざした旨味、脳内では疾走のような衝撃という両極性に頭が混乱する。
ソムリエの曖昧な助言に頼らず選んだ2008 Brovia Barolo Villeroはまだ赤色を帯びているのに、実は既に潮時を迎えた白髪少年である。 最初はBarnett Newman風のアブストラクトアートに見せかけて、その罠に嵌った無防備な人に無限の複雑さを無慈悲に放り出す。
そんな人喰い花じみた性格のバローロを従順するには、私の知る限りではKarajanがBerliner Philharmonikerを指揮したMahlerの交響曲第九番第四楽章より適切なものはない。 そしてワインもまた音楽に対する善玉菌の一種であり、難しい旋律を解して、潜在する愉悦の表情を引き出してくれる。