換気扇の激しい回転、洗濯機の不穏な振動、吠える畜犬、昇降機の冷徹な通知音等々、全てを耳に注ぎ込む騒音だらけの日常である。 現代人という生き物は忙しすぎて、無頓着で無抵抗で、自身への虐待を気付くことすら出来ない。 結局、それにうんざりしているのは私だけな気がして、急に淋しくなった。

Evgeny Kissinの生演奏を聴くと、その執拗い疲れが徐々に飛ばされていく。 特に彼が奏でるショパンの曲は音に別世界が宿る。 時には花畑が咲き、時に虹が八方に放たれ、時に槍が突いてくる。 この音を美食美酒に譬えようがない。 もっと俗世から離れた、高潔で貴い存在だ。 強いて言うなら、「斜陽」のお母さまに印象が似ているかも知れない。

夜想曲に幻想曲、聴いている私は思わず身を委ねた。 音楽が体内に流れ、全身を巡り、音という媒体を通して、感情を彼に、いや、ショパンという天才に時空を越えて支配された。 そして言葉の無い意志を強制的に継がさせられた。 世の中の混沌に抗いたい。 全てに真摯に向き合いたい。

彼は次にベートーヴェンやブラームスの曲も弾いたが、即興のアンコールでショパンに戻った途端、あまりに自然で流麗で、正に天職復帰の感じだった。 短いポロネーズは天気雨の如く、一座建立、一瞬で終わった。

花時雨を凌ぎ、公園を抜け、モダンな建物の中にあるSteirereck im Stadtparkで昼食をとる。 硝子窓が床から天井まで届くので風景を永々と眺められる。 ブーダンノワールのパンを齧りながらメニューを読んでいるうちに外は既に雨が上がった。

2020 Wieninger Grand Select pinot noirはまるでブルゴーニュに物申しているようなワインだった。 よくも四六時中ぷんぷんと無遠慮に香るものだ、と。 物静かな人は喧噪を恐れるがうるさい人は静謐を恐れないと同様に、無臭の者は香る者を恐れるが臭う者は香らない者を恐れない。

そんな自尊あるワインは近くの湖で捕ったパイクに大変合う。 引き締まった白身と、トマトとバターとレモンタイムのソースは、互いにクリーンな味だった。 後は地元のブルーチーズにも合う。けれど先と趣が違う。 平静な湖を敢えて掻き立て、底に潜んだ癖を引きずり出すという極大胆なペアリングだった。 急いでフロマジェを呼んでチーズ名を訊ねたら、「Österkron」、と彼が頗る誇らしげに教えてくれた。


Club Gasconのフォアグラを食べて、ふと先日Alice Sara Ottが演奏したラヴェルのピアノ協奏曲を思い出した。 玉の形に化けたフォアグラの上に一弁の花びらのような、薄すぎず厚すぎずの白トリュフが飾ってあった。 主役の華を奪うことを避けつつ人を瞬間的に魅惑するその簡潔さから圧倒的な余裕が伝わる。

薄氷のように滑らかな表面に包まれた中身は豊満である。 コンサートの余韻のせいでもあるかも知れないが、その上私はきっとその透き通った味と冷たい感触と今風の仕上げに彼女の音楽的気質を感じたのだ。

鍵盤を打って音を出すというよりも、初めからそこに音があって、彼女の指先との接触によって解放されるだけ、そういう音色だった。 掻くぐらいの力加減が心地良く、陳腐の気配が一切ない。 尖りがないわけではない。 しかしその多々の角は人畜無害であって、たとえ深く刺さられても、音も立てず、静かにあの世に行ってしまうに違いない。

表情豊かな彼女は音の波に揺れていた。 流されないように十本の指であの頑丈かつ不動な黒いピアノにしがみ付いているように見えたり、或いはピアノが太陽で、それを中心に回る惑星にも見えてきた。

コンサートの前に夕食を済ませようと思って、前から気になっていた音楽堂の付近のレストランを予約したが、いざ時間通りに訪れたら思いの外空いていて一寸拍子抜けした。 店前の広場には少年たちが走り回って遊んでいるだけだった。

黒板に書かれた本日のスペシャルのヘイク・アンド・チップスに惹かれて、直ちにそれに決めた。 それはもう他と違う格別に大きなフィレであって、圧巻の見た目だった。 鈍いフィッシュナイフで捌くと、サクッと、中は熱い。 自家製のタルタルソースを付けたり乗せたりして食べる。 付け合わせに茹で野菜。 小ぶりなグラスで飲む白テーブルワインは中々美味しい。

ウェイターはイギリス人かイタリア人か、兎に角親しい笑顔で客に接して、気の利いたサービスをしてくれた。 白ベースの店内は簡素ながら人情豊かな雰囲気に満ちていたので、私はついラ・ヴィ・サンプルの夢を見た。


コロナ禍の年、外食が禁じられていたので医鬱排悶の為に一本の2006 Robert Groffier Chambolle-Musigny Les Amoureusesをレストランから買った。 家でグランヴァンに向き合う覚悟を決めて開けたのに、ワインはまさか逆方向に走り出した。

ちっとも気を取ろうとしないその自然体が「深く考えないで」と呟いている。 大女優も休日が欲しいものだ。 人間は完全に力を抜くと躯が重くなるらしいが、このワインは寧ろ軽々しい。 そうならば、大原ゆい子の「イエスかノーか半分か」ぐらいが丁度良い息抜きであろう。

鍵盤に向かう素朴な笑顔が天真爛漫であって、その可愛げな声は本当はもっと逞しい筈だ。 比べると写真や映像でよく見られるアンニュイの顔はどこか人工的で、仮面のようであまり似合わない。 歌から滲み出る幼稚さの帯びた純情は分かりやすくて愛しやすい。 それに甘えるワインの痴態も常情であろう。

この一帯の上海飯店は何故か皆永く続かない。 本格的なのを見つけたと思って油断したら、紅油夢から忽然に覚めたように、もう店が潰れていた。 そのせいで私はいつも一期一会の気分で店を訪れざるを得ないようになった。

若い2021 Roblot-Marchand Chambolle-Musignyは芳香が店内中に蔓延って、食卓上の黒醋と張り合い、周囲の客の目を奪う。 砂鍋饂飩雞を一口食べてから、ワインを少し飲んで、そしてもう一口食べる…そう繰り返しているうちに、何となくtortellini in brodoの食べ方に似ていると思った。

銀絲巻は偶数でしか注文を受けないが、蒸したのと揚げたのを一本ずつ頼むことは許される。 あの大きい皮で細長い生地を孕むという唯一無二の食感は十八摺小籠包よりセンスを問う。 一本の胴体を四枚に切って、より贅沢とされる中間の二枚はよく譲り合いの対象になっている。

銀絲巻の白肌を濃油赤醬で汚すのは極めて低俗な行為であり、一方、実は雪菜毛豆百頁の塩気が相性が良い。 温和な銀絲巻が赤ワインに当たるとどうしても向こうの尖った酸味を強調してしまうので、両方にも合う雪菜毛豆百頁が自然にその間に挟む緩衝となる。